瓶文通信

鯖寿司と天ぷらが好き。

2018北海道旅③(20180907→20180909)

 7日朝、空腹のなか目覚めた。何か情報があるかもしれないとエレベーターでフロントまで降りると、なんと朝食ビュッフェ(有料)との新聞(無料)が用意されていた。ホテルの朝食なぞ「高いばかりで大したことない」と思っていたが、この時ばかりは感謝の気持ちを持って1600円払って席に着いた。卵焼き、鯖の塩焼き、じゃがいもにサラダ、バター、味噌汁、ごはん、牛乳・・・種類が多いとは言えないが1日ぶりの温かい食事を口にするととても安心した。普段は太りたくなくてあまり食べないが、とにかくたくさん食べた。お腹がふくれると思考も前向きに循環し始めたように感じた。

 その後、近くのスーパーや電気店で飲料水やレンジ調理のごはん、カップ麺、お菓子、ミニトマト、充電器を購入した。小樽で経験した大きな揺れからもう何十時間も経つというのに余震は何度も何度も訪れて、その小さい揺れが次の本震へのカウントダウンのようだった。次の停電・断水に備えなければならないと多くの人が感じたと思う。特に電気店では充電器やラジオ、懐中電灯を購入する客が行列をつくっていた。

 この日の15時には通常通り、ホテルの大浴場が開いていた。交通機関はどこもストップしていたので、行き場のない観光客は皆大浴場くらいしか楽しみが無く、明るい時間から賑わっていた。私は風呂を満喫してから部屋に戻り、ここでやっと予定を早めて帰った方が良いことに気づいた。もともと購入してある航空券に追加して、9日の航空券と、さらに苫小牧から出ているフェリーを予約した。本当は翌日の8日分を予約したかったが、既に全便売り切れで、ここでようやく小樽からフェリーで帰るのが得策だったと気づいた。自分の至らなさを不甲斐なく感じ、イラストを描いて現実逃避した。

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 8日。前日夕方から再開したという地下鉄に乗って、札幌まで出てみる。札幌なら、本震がきたとしても徒歩2時間でホテルまで帰って来られるから安心だ。どうせ9日まで帰れないのだし観光してしまおう、と思い切った。北海道大学、赤レンガ庁舎、テレビ塔。服屋やドラッグストアなども開いていたが、飲食店は閉まっているところが多く、コンビニも開店休業状態で食料棚は空だった。「なんとか北海道らしいものを食べて帰りたい」と二条市場を訪れると、飲食店が二つ開いており、海鮮丼を食べることができた。日替わり海鮮丼2200円は、マグロや海老、ホタテ、イクラ、ウニなどがのっており、付属のガリや味噌汁まで染み渡るように美味かった。特にウニなどは、まさに本物の味といった感じで、生臭すぎず、濃厚な味わいだった。店内は海外観光客が多く満席で、震災などなかったように活気に包まれている。テレビから流れている交通情報も大分改善されており、希望が見えた。

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すすきのから真駒内へ向う地下鉄に乗っていると、「厚真町で地響きがありこの後4時間以内に本震がくるかもしれない」というツイートが目に付いた。「ついに来るか」と身構えると共に、「この情報は一体誰に向けて発信されているのか。本震などいつ来てもおかしくないのに。見た人を不安にさせるだけではないのか。」という反抗的な感情が生まれた。とにかく急いでホテルに戻り、大浴場で風呂を済ませ、大きな揺れに備えた。昨日あんなに湯船につかっていた中国人たちは全くおらず、広い浴場には私を含め2~3人しか存在しなかった。彼らはもう帰ったのだろうか。これからまた本震が起これば、再度停電・断水が始まり、復旧した交通網もストップするかもしれない。余震に揺られながら、明日飛行機が飛ぶことを願って眠りについた。

 9日。結局、大きめの地震は実際に起こったようだ。ただし私のいる地域は他の余震と変わらぬほどしか揺れなかったのか、全く気づかなかった。ホテルへの感謝の意味も込め、朝食ビュッフェで腹ごしらえをして、新聞を読み、部屋の片付けをした。窓からは30分おきに空港に向かう北部交通のバスが見える。通常運行だ。新千歳空港へはバスで70分程で、予約できた航空券は14時50分発だが、何が起きるか分からないことと空港の飲食店に少しの期待を持って、10時の便に乗り込んだ。バスは問題なく空港に到着したが、空港では飲食店はもちろん、コンビニも一つも開いておらず、ベンチでチョコレイトを食べながらやり過ごした。東京行きの飛行機は半分程度の乗車率で、既に観光客達が北海道を出ていることを物語っていた。私は、全てが一手二手遅いのだ。反省。雨の中出発した飛行機は無事に成田に到着し、蒸し暑い東京が私を迎え入れてくれた。明々とした成田空港のコンビニに、やっと日常の端っこを見つける。それと同時に、観光客だからといって被災したのにさっさと北海道を脱出して日常に戻って良いのだろうか、という罪悪感も感じた。

 日が経つと、お金をかけて観光に行ったのに北海道を楽しみきれなかった悔しさ、被災地への心配、ホテルの人が優しかったこと、北海道の青空や雷空が広く綺麗だったこと、暗闇に沈む町と懐中電灯の光がとてもこわかったことなど様々な断片的な思いが浮かんでは消える。店員と客という関係性はあるが、北海道のホテルやお店の人たちは大変な状況の中少しも嫌な顔をせずお世話してくれたことが印象的だった。色々なことがあったが、1年後、2年後にまた訪れて仕切り直したいと思う。その時にはきちんと、どうすれば東京に帰れるのかを様々なパターンで調べて、充電器と小型ラジオを忘れずに持って行くだろう。そんな事を考えながら、次の災害に備えた避難リュックセットをつくっている。